にいがたNGOネットワーク(Nネット)の理事より、会報2012年7月号にご寄稿いただきました。 

「アフリカから持ち帰った、ビルマの日本軍票」 青山清道(理事/元新潟大学教授)

 平和で豊かな時代を享受している現在において、第二次世界大戦とはいったい何であったのだろうか?
太平洋戦争中に、この世に生をうけ、海外最初の赴任地がビアフラをめぐる内線中のナイジリア。
ここで、ビルマ(現在の ミャンマー)のアラカン戦線で日本兵と戦ったという人たちに出逢った。

 私は、1968年〜1971年、JIGAの派遣専門家としてナイジェリアのラゴスにあるヤバ工科大学の客員講師をしていた。時間があれば、学生とともに、日本の2.5倍もある広大な国土を調査や視察をした。
北部のカノという都市で、“日本人とはなつかしい、自分は2年間、ビルマで日本兵と戦った”と、1人の黒人が近づいてきた。彼は、財布から古い紙幣をとりだした。これをいま通用している貨幣に交換してほしいという。
よく見ると第二次世界大戦中、大日本帝国政府発行のビルマの日本軍票、5ルピー紙幣である。
 ガーナの首都、アクラでも、同じような経験をした。
アクラには、イギリス軍の傭兵としてビルマのアラカン戦線へ投入され、戦後帰還し、失業した黒人たちがイギリス総督官邸に向かってデモ行進を行った通りの名前が残っていた。

 太陽に月が重なって光のリングのように見える金環日食が5月21日、アジア太平洋の各地で観測された。
話はそれるが、5月21日は野口英世博士がアクラでなくなった日である。
ナイジェリア滞在中、博士終焉の地アクラを三たび訪れた。
国立コルレ・ブー病院の構内にはこじんまりとした美しい日本庭園がある。そこにたたずむ博士の胸像に花をたむけた時の歌が鮮明に蘇った。 

”世の人に 久遠の理想 与うため 逝きし博士は ここに眠れる”
野口博士は1928年5月、研究の成果を報告するため、いったん帰米することにな り、これに先立って、当時ナイジェリアのラゴスにあったロックフェラー財団の 研究所を訪れた。発病したのはその直後である。急いで引き返した博士はコルレ ・ブー病院に入院する。そして9日目に意識不明に陥り、そのまま不帰の客となる。

 昨年末から新潟県に関係深い3本の映画が注目されている。
役所広司主演、"聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実―"
大林監督、"この空の花 ―長岡花火物語― "
平成25年秋公開予定の”飛べ!ダコタ”は、佐渡が舞台

1945年8月1日、アメリカの空爆により、長岡市で、1,482人が命を落とした。
この時、母は3歳の私を抱きかかえて東山の方向へ逃げた。
長岡の市街地は焦土と化し、実家は全焼した。
今年もまた、長岡空爆の犠牲者を追悼する日がめぐってきた。
いま生きている我々にできることは,過去の教訓をいかすことである。
地震は止めることはできないが、戦争は人間の心がけ次第で止めることができる。
映画をみて、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて感じ、二度とこんな時代がきてはいけない と痛感した。

アフリカからもちかえつた,ビルマの日本軍票の2枚は、今でも大切に保管している。

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青山清道さんは、にいがたNGOネットワークの理事です。